トリニダード&トバゴからスティールパンの映画登場!
「スティールパンの惑星」
今月23日より、アップリンク渋谷にて公開を控えているトリニダード&トバゴの映画「スティールパンの惑星」こちらの作品の配給を目前に、本作品を日本へ導いた中心的人物HEMO氏にお話をうかがうことになった。現在に至るまでの、すべての活動に見え隠れする彼女のポジティブで強烈なエナジーの出処を知りたくて。今一度、彼女の生きて来た軌跡にふれたいと思う。
インタビュー: selector HEMO
インタビュアー:ダーリンSAEKO(UWSTO/PACO企画編集長)
「selectorHEMO」
——–本日はインタビューを受けてくださりありがとうございます。まずは、明日公開に迫った映画「スティールパンの惑星」についてずばり見どころを教えてください。
HEMO:『スティールパンの惑星』はスティールパンの魅力がいっぱい詰め込まれています。鳴らした瞬間にその場をパラダイスに変えるスティールパンの音色が、廃棄物からどのように今のような楽器になったのかがきちんと描かれているところと、今のトリニダード&ドバゴのリアルな姿を描いているところが魅力です。
———–今回ご自身で映画を配給されるとお聞きしたのですが..
HEMO:初めての事だらけで何もわからず手探りの中やっているのですが、主宰しているレーベルの”LIME RECORDS”の仲間たちのROMIEとKODERAと一緒に配給させてもらっています。
————配給することになったきっかけと理由を教えてください。
HEMO:以前からDJ活動やよさこいチーム『かなばる』を通じ、トリニダードの文化を紹介することに携わってきたのですが、なかなか難しいと感じることもあり、映画ならもう少し深い意味で文化を運べるのではないかなと思い決断しました。トリニダード&トバゴ、カリブの文化をもっともっと楽しんでいただけるのかなって。 きっかけは、探して見つけたというより、いろんなご縁でトントントンとこの映画が私のところにまわってきて、それをバシッと受け止めた感じです!流れだけは気にするタイプで。(笑)
———今後の映画の公開と上映スケジュールを教えてください。
HEMO: 9/23~10/6まで2週間上映公開です。劇場はアップリンク渋谷です。この期間中は、イベント上映として映画終了後にスティールパンのミニライブを開催。出来ればトークも交えていきたいと考えています。その後、順に全国を回る予定です。上映イベントオファーもどしどし募集しています!!
―――――日本全国スティールパンファンの方も私のような未知の世界に興味を持っている方も、とても楽しめそうな企画ですね!!ここで少しお話を変えて、HEMOさんご自身の今までの活動についてお話を伺っていきたいのですが、まずは今年10周年を迎えたよさこいチーム『かなばる』について教えてください。
「よさこいチームかなばる」
HEMO:高知県(よさこい祭り発祥)出身で、3歳の頃からサウンドシステムから流れる爆音にドギドキしながらよさこいに参加していました。それがきっかけで日舞を始めて。
————-いきなり、驚きの情報(笑)日本舞踊を踊られていた?
HEMO:はい。伝統的なよさこいチームに参加していたので、日本舞踊に興味を持ち習い始めました。
————当時のよさこいは、日本的な要素の多い伝統的なチームが多かったのでしょうか?
HEMO:もともとよさこい祭りに自由度があって、オリジナルの民謡のフレーズさえ入れていれば、ヒップホップをいれてもサンバやジャズをいれてもOKみたいな。伝統的な和のチームもいましたが、奇想天外のチームも多いイメージでした。
———–いつ頃からよさこいチームを立ち上げようと考えていたのですか。
HEMO: 小学校1年生のときの作文で、将来の夢がよさこいのチームを作ることだったんです。小さな頃から「大人になったらあのトラックの上にのりたい。」と言っていたみたいで(笑)
———-(笑)はやいですね。
HEMO:高校1年生の頃、高知で『アンティークス』という古着屋さんでバイトをするようになって。オーナーの藤本洋二さんは、現在は四万十で*『山みず木』というキャンプ場&温泉を経営している先輩なのですが、その方がもともとよさこいのチームを作っていたんです。レゲエとよさこいのミックスチームで、*ジョニーオズボーンを筆頭に次々と巨匠と呼ばれるレゲエシンガーたちを呼んではよさこいのトラックに乗せていたんです。
*ジョニー・オズボーン(Johnny Osbourne)=ジャマイカを代表するシンガー
———すごい方ですね。
HEMO:その当時(90’s前後)*ジャパンスプラッシュをプロモートしていた別の先輩もいて、ブジュ、ウェインワンダー、マイティーダイヤモンズなんかも身近で見る事が出来たのです。今思えば、高知の田舎で本物に触れ合わせてくれた先輩たちの影響をおもいっきり受けています。
*ジャパンスプラッシュ=1985年にスタートしたレゲエの野外イベント
———では、その頃すでに『かなばる』へのインスピレーションはあったのでしょうか。その後上京されるのですよね。
HEMO:18歳で上京して、20歳の頃*GO-BANG’Sの森若香織さんの勧めで、*朝本浩文氏率いる*RUM JAM WORLDというバンドのメンバーにダンサーとして入れさせて頂いていたのですが、大阪のフェスに出演するためリハーサルをしていた時に怪我をしてしまって、そこから車椅子生活に。
*GO-BANG’Sの森若香織:日本の歌手、作詞家、女優。*GO-BANG’Sのメンバー
*朝本浩文:音楽プロデューサー、作曲家、アレンジャーUAを始め、数々のアーティストの作品を手掛ける。
*RUM JAM WORLD:1991年BMGビクターよりデビュー。プロデューサー朝本浩文とエンジニア渡辺省二郎のプロジェクト。
——-そんなに酷い怪我だったのですか?
HEMO:はい。大阪の万博公園から直ぐに病院に搬送してもらって、手術したんですけどかなり長引きました。
————–それは、かなりハードな体験でしたよね。ダンスの道からDJの道に、すぐに気持ちを変化できたのでしょうか。
HEMO:もちろんダンスが好きだったので、ジャマイカに行って流行りのダンスを取得したりとかっていうのはありましたけど、趣味として踊っていました。それよりも、ジャマイカのダンスホール音楽の探求、そしてレコードを集める方向にすっと入っていってしまって。その頃は、DJというよりはセレクター的な活動をしてました。実際、東京にはたくさんやばい情報がいっぱいあると思って(笑)
———情報とは?
HEMO:インターネットがなかったので、”レゲエマガジン”という雑誌など購読していました。あとはCDとかカセットテープを借りるとか。そういう環境がいっぱいあったのです。当時レコードショップCISCO(シスコ)のレゲエショップで働いたり、90年代はほぼレゲエ、ダンスホール漬けの毎日でした。
―――-渋谷のCISCOで?
HEMO: はい。94年から99年まで働いてました。それから2000年にトリニダード&トバゴに初めて行くことになり。
———なぜジャマイカではなく、トリニダード&トバゴだったのですか。
HEMO:当時西麻布の*CLUB JAMAICA(クラブ・ジャマイカ)というところで、レギュラーDJしてたんですけど、選曲にソカの音楽を取り入れていたら、東京に働きに来ているトリニダード出身の方がいて「俺の国の曲をかけてるやつ初めてみた。カーニバルを実際に体感してほしい!俺の実家に泊まっていいよ!」と言ってもらって、本当にホームステイしに行きました。
*CLUB JAMAICA(クラブ・ジャマイカ):西麻布にあった1987年〜2012年の25年間続いた最も老舗のレゲエ・クラブ。
——–(笑)すごい行動力。当時はよさこいのことは考えていたのですか。
HEMO:いやもう忘れかけているような時期で。でも実際のカーニバルに行ってみたら、それが自分の地元のよさこいにそっくりで。それですぐに高知新聞に国際電話で電話して、「すみません!地球の裏側にそっくりなもの見つけちゃったんですけど」って。
―――笑
HEMO:そしたら新聞記事になり、その記事を読んでくれた原宿の『スーパーよさこい』の主催会社で働いていた角さんという方が連絡をくださり、「俺もそこ!(※高知とトリニダードの類似性が)気になっていて」と言ってくれたり。後に一緒によさこいteam『かなばる』を立ち上げる人なんですけど。
―――いよいよ夢実現に近づくのですね。
HEMO:その後、友人ダンサーや仲間を連れて行ったり、足繁くトリニダードに通っているうちに唯一「やってみようか?」って言ってくれた『かなばる』の初代振付師YURI(ex . FLY GIRLS)と、小さい頃からの幼なじみの地元の友人たちを中心に、2008年に立ち上げが決まりました。高知と東京中心メンバーが7人くらいでした。
「2008年かなばるがスタートした年」
———-実際に結成されて10年。そうとう大きなチームへと成長していくと思うのですが、いかがでしたか。
HEMO:チームとなると総勢150人の多くの方をまとめなきゃで、そもそも性格上あまりチームをまとめるようなタイプでもないので、上に立つということが大変でした(笑)しっかりしなくちゃいけないというか。
「かなばる」
—–具体的には何が一番大変でしたか?
HEMO: とにかく時間がかかります。毎年1月くらいから準備はスタートし始めて、祭りが近くなるともう他のことが何もできない(笑)仕事をしながら、さらに他の何か事件や問題が入ってくる感じです。あとは、まあぶっちゃけかかる経費も多額で大変ですよ。1チーム600万円から800万円ほどのお金がかかるので。
———-ひゃー。噂には聞いていましたが。
HEMO: ある程度の資金を積まないとできないですね。費用の問題もあり若者や面白い団体がなかなか出てこない。よさこい離れの一つの要因かとは思います。
———-それはかなりチームを作る上でハードルが上がりますね。でも、そこから10年間続けてきたのは本当にすごいです!!
HEMO:変わってないです。私。みんなのおかげです。本当に。なんかね、一度すごい大変でやめたいなと思った時に3月11日の震災が起きて、その時、日本にいなくてトリニダードにいたんですよ。現地のカーニバルの次の日で、なんだかそういう時こそ祭りをやらなくてはいけない気持ちに駆られたんですよね。それで、その年はトリニダードの方たちが衣装を寄付してくれたんです。自分たちの祭りの衣装は作れないけど寄付してもらった衣装着ようって。ダメな時に何かそういうことがあって10年繋いできたんですよ。
—————-様々な苦労も多かったと思うのですが、”かなばる”を10年目にして区切りをつけるという決断は、よほど大きな事なのではないでしょうか?
HEMO:私としては、祭りは辞めるとかそういうものではないと思っていて、死ぬまでやるもんだって思っています。ただ、よさこいの花形はやはり和のチーム。めっちゃかっこいい正統派の和のチームがいる中、その裏で”かなばる”等の賑やかし的な奇想天外チームがある。
最近は減少傾向にあるので貴重な存在だとは自負しているのですが、こういう賑やかしのチームは何十年も同じものを続けるものでもないんじゃない?と振付師のYURIさんに助言された時に、自分の中でうなづけてしまって、「10年たったら、みんなも変わるじゃん?ソカ以外のアフリカとかの音楽の興味も出てきてるんだし、今の自分が本当にやりたいことをよさこいに落とし込んだ方が自然じゃない」と言われて、確かにそうだなと納得してしまったところがあったのです。
———-HEMOさんご自身の音楽性の変化や周りのメンバーの方たちの変化が自然と区切りという決断に向かったのですね。
HEMO: はい。借金とか作って元気無くなって終わるより、打ち上げ花火のように終わりたいなって(笑)また是非よさこいはやりたいですけどね。
―――先ほどアフリカの音楽というお話が出てきましたが、ガーナでよさこいに参加されてますよね?そもそもガーナによさこいがあったのですか!?
HEMO: ガーナよさこい祭りは16年前から行われていて、海外のよさこいでは最も歴史が長いと思います。2002年に、高知県出身の駐ガーナ大使(当時) 浅井 和子さんを中心に高校時代の同級生の協力でガーナでよさこい祭りを始めたそうです。浅井さんの本を読んで会いに行きいろいろお話を伺いました。
駐ガーナの大使に就任した際に、全部族を周り挨拶して始めたと聞いてます。始めた当初は凄かったんだけど、今は少しづつ低迷してきているというお話でした。よさこい当初の映像を拝見して、ダンスとか本当にすごくて。 ガーナの人たちが15年も、日本人がいない中踊り続けてくれている現実があるのにって!浅井さんも、様子見てきてと言ってくださって。盛り上げにいこう!よさこいの火を消してはいけない!よさこいで国際交流をしたい!と思い自然に動いてました。
——–実際に行かれたのは何年頃だったのですか?
HEMO:2013年に行こうとしたらエボラ騒ぎになってしまって断念。結局、2015年からアフリカンダンサーFATIMATAさんと『JAPAN YOSAKOI REN』を結成し2年連続で参加してきました。
———–現地に行かれてどうでしたか?
HEMO: 圧倒されました!部族ごとのチームがあって、“なるこ”の鳴らし方なんかも独特で。私たちだけが唯一の日本人チーム。10人くらいで乗り込んで。SNSでも募集をしてナイジェリアから参加してくれる人もいたりして。日本人チームもアフリカ人チームもお互いにダンスを見せ合うのだけど、高知県人と東京の人を混ぜるよりも自然に混ざってしまってる!なんて思うことも(笑)
——–言葉が解り合えるもの同士の方が帰って難しい的な(笑)ガーナでの経験はHEMOさんの活動に何か影響はあったのでしょうか。
HEMO:もっと、違うアプローチでやれる事があるんじゃないかと思いました。
————–いい予感しかしないですね。違うアプローチと言えば、”HEMO&MOOFIRE(ヘモ アンド ムーファイヤー)”について少し教えてください。
「HEMO+MOOFIRE」
HEMO:もともと2人ともバラバラのクルーで活動していて、MOOがやってた”CHERY BOMB”というクルーと私がやってた”TIME MACHINE”というクルーで、女性だけが出演する”ウーマンウィネーム”というイベントを企画したことがありました。ヒップホップとレゲエ中心のパーティーで、新宿HIGH TIMEで開催。お客様300人くらいを想定していたのですが、実際は1000人という想像を超えた動員数で(笑)停電したり、ドリンクが売り切れたり、とにかく大変なイベントで。その後、お互いのメンバーが帰省したり結婚とかして現場から離れてしまい、二人が残った形です。
—————-HIGH TIMEに1000人。かなりすごいことですね。
HEMO:その当時、自分はCISCOで働きながらセレクターをやっていたんですけど、MOOはすでに音楽一本でやっていて「あんたもそろそろCISCOやめたら?二足のわらじは、履けないよ」って言われて。
———–笑 MOOさんがキッカケで組むことになったのですか?
HEMO:はい。それでそろそろCISCOを辞めようって思っていたらクビになって(笑)。あ、ちょうどよかった!と思って。失業保険でジャマイカ行って、それで一緒にやろうってなって。”HEMO&MOOFIRE”っていう名義になったのが2000年。
———”HEMO&MOOFIRE”のサウンド的なコンセプトはソカ?レゲエ?
HEMO:ファーストアルバムが『ESCAPE』というアルバムなんです。当時渋谷 HARLEMの上のBX CAFE で、その後渋谷のセルリアンタワーのJZ’BRATで『ESCAPE 2 DANCEHALL』というイベントを定期開催していました。テーマが「音楽の社交場」で、お洒落していくパーティーみたいな。基本はレゲエのダンスホールスタイルですが、R&Bとかチークタイムもあったり、良いと思う音楽は何でもかけるみたいな。パーティーの終盤にソカをかけることにしていて。
「ESCAPE RIDDIM」
——–パーティーありきの2人の活動だったのですね。
HEMO:パーティーの中で、洋楽のめっちゃ踊れる曲に繋いでも負けない日本人の曲をプロデュースしたいという夢があって。あくまで例えなんですが、洋楽の曲をかけて、邦人の曲をつないだら、踊れなくなる時ってないですか?リズム的にも。それで繋いでも負けない曲をプロデュースしたいって。それで出来上がったのは、ファーストアルバム『ESCAPE』。同じRIDDIMでジャマイカ人が歌っていたり、日本人が歌っていたり、トリニダード人が歌っていたりしても、踊りが止まらない。自然に流れる曲を作りたいってなって。
―――面白いですね。
HEMO:その中で人気になった曲があったので、*clubCACTUSが誕生しました。それで、外で開催していたイベントをやめて、CACTUSで開催するようになったんです。いろんな意味で状況は変わりました。2009年頃からは、また方向性の違いで個々に活動を始めました。
*clubCACTUS:乃木坂にてHEMO&MOOFIREプロデュースのもと2006年にオープンしたバー。
——–話が前後してしまうのですが、そういえば、HEMOさんトリニダード&ドバゴ、ソカミュージックのスーパースターMACHEL MONTANO氏(以下マーシェル)を『かなばる』で招致していらっしゃいましたよね?
HEMO:かなばる10年目の区切りに誰かを招聘してコラボレーションをするなら、中途半端な人を呼ぶよりも最高だなって思う人NO.1のアーティストを呼んだほうがどう転がっても後悔はないなと!
———マーシェル氏との出会いは?
HEMO: 出会いはもともと大ファンだったので、初めて現地のコンサートに行った時に舞台裏で出待ちして喋りかけて、それが出会いです。HEMO&MOOFIRE、*DANCEHALL QUEEN JUNKOをマーシェルの主催のビックフェス『Altanative Concept』に日本から招聘して頂き初共演をさせてもらいました。
*DANCEHALL QUEEN JUNKO:ジャマイカで開催される世界最高峰のレゲエダンスコンテストにて2002年、初めてジャマイカ人以外で優勝(クイーンを獲得)という偉業を成し遂げた。
「DANCEHALL QUEEN JUNKO」
「HEMO,MACHEL MONTANO,YURI」
———いきなりすごいですね。
HEMO: それから2004年に、HEMO&MOOFIREの初プロデュース リディム「ESCAPE riddim 」の続編『SOCA ESCAPE Riddim』で彼に絶対に歌ってもらいたいなって思い、飛行機のチケット買って、マーシェルの所まで行ってこれで歌って欲しいと直談しました。
—–すでに、家まで突き止めていた(笑)!?
HEMO:(笑)はい。執念!
——–初プロデュース作品を作った時のコンセプトは何かあったのですか?
HEMO:その当時2000年初期、ジャマイカとトリニダード&トバゴはあまり仲が良くなくて。一緒に共同制作ってなかったんです。それで、ジャマイカ×トリニダードの橋渡しというか、そこに日本も入って音楽交流というのをやりたかった。
———-それ、めちゃくちゃいいじゃないですか。
HEMO: まずジャマイカで、シンガーのトニーカーティスとESCAPE riddim”WHAT A FEELING”を録音し、そのあとREMIXでマーシェルに乗せて歌ってもらったことで、それで双方の国のラジオや現場で流れて。一番びっくりしたのは、NYからカリビアン航空乗ったら、機内で流れていて、機内誌の音楽のページに紹介されていた!こちらには何の連絡もなかったんですが(笑)
―――-すごい!!
HEMO:予算がなかったのでマーシェルをエコノミーに乗せてジャマイカに来てもらい、ライムキーで木の小舟に乗せ(笑)夜中にPV撮影したのも良い思い出です。PVは日本版、ジャマイカ版、トリニダード版3個制作しました。
———-なんだろう。なんかとんでもない話を聞いた気分です(笑) 謎の日本人が3カ国を繋げてしまうみたいな。
HEMO:これが、バルバドスのラジオチャートで1位をとったんですよ。『MAD COBRA / LIKE WAR 』この影響もあり、”ESCAPE riddim”がカリブ全域で流行ったんです。その頃調子に乗っていたから、ビルボードチャートとか、本気で狙っていて(笑)プロモーション活動を海外で本当にいっぱいしていたんですよ。地道にラジオ局やTV局に行ってCD渡したりして。ラジオ局のDJに半監禁されたこともありました、お金をよこせと!
それでその曲が流行ったこともあり、2004年にMACHEL MONTANOの5万人規模のビッグフェスがあるんですけど、今でいう『MACHEL MONDAY』。「飛行機代出すからお前らとにかく来い。」って。自分はすでにチケット購入していたので、MOOFIREとDACENHALL QUEEN JUNKOと3人で行きました。PIT BULLはセスナで来てました。(笑)
———–笑。すごすぎて想像できないです。とにかく、そういう出来事が今回の来日に繋がったのですね。
HEMO: 呼びたいとは思っていましたが、一流のアーティストはギャランティーが本当に高くて。私では到底呼ぶ事はできない空の上の存在だったのですが、2016年の高知よさこいの『かなばる』に、トリニダード&トバゴ出身の方が参加しにきてくれて、普段は看護師をされている方なんですけど、その時の様子を撮影してFACEBOOKに投稿してくださって、そしたら200万回再生され、マーシェルや他のアーティストの方の目に触れて。続々とみんな日本に来たい!と言ってくれて。
マーシェル本人からも、直接インスタのメッセージでよさこいで何かMAKE HAPPENしたいってメールが届いたんです。そこから5ヶ月間、毎日のようにマネージャーさんとやりとりして交渉を続けて。時差もあるので、寝れない日々とストレスとプレッシャーで壊れそうになりながらも!二回断られたんですけど、(泣)
———–2回も!?
HEMO:そうなんです。やはりスーパースターなんで(笑) 誰だと思ってるんだ!!って。だけど、私、執念と書いてHEMOと呼ぶので諦めきれずに夢を伝え続けました。「今どこ?」とメールをしたら「バハマ」って帰ってきて。「今から行くから!」と伝えて、マーシェルから「どうしたの?」と聞かれて、「かなばる10周年に来て、コラボレーションしてほしい」と送ったら、次の日マネージャーさんから連絡来て、「わかりました。行くとマーシェルが言ってます」って。
————すごいですね。執念!!条件もろもろ大丈夫だったのですか?
HEMO:いや、やはり”かなばる”だけでは無理で、行くなら2回はショーをやりたいとのことだったので、慌てましたがやるしかないと!ギャラめっちゃ高いけど決まったのが6月後半。もう本当にドキドキでした。
「MACHEL MONTANO かなばるのトラックにて」
「HEMO&MACHEL MONTANO かなばるのトラックにて(トリニダード&トバゴの新聞に掲載)」
「HEMO & MACHEL MONTANO」
———HEMOさんのすごいところは、そこで怯まないところ。その原動力はどこから来るのですか?
HEMO: 多分私に影響を与えてくれた先輩たちが、それをやってくれてたんですよ。どうやってやっていたのかは、わからないけれどリアルで生のものを見せてくれていたから。高知の田舎でも、海外のすごいバンドを見れたり、それはとても色濃く自分の中に残っています。
自分が何かやることで、1人でも若者が何か感じて受け継いでくれたらいいなって。リアルなものを見せたい!っていう勝手な使命感です。誰にも求められてないのに(笑)
度々、HEMOが呼びたいから勝手にやってるんでしょとか、色々と言われたりもしました。確かにそうなのですが、自分の為だけだったらこんなきつい思いしてまで呼んでいない気がします。自分は現地に足を運んでみれるわけで。
———何がそこまで掻き立てるんですか?
HEMO: 思い描ける夢は叶いますよ!っていうことを証明したいのかな。NEVER GIVE UP!!!!
———-夢を描くのって案外難しいと思うのですが、HEMOさんは一体どうやって夢が浮かぶのですか?ひらめきですか?
HEMO: いつも夢が叶った時に、次の夢みちゃってるんで。なんだろう..まだ叶ってないからなんとも言えないのですが、これは凄いなとかくらったなって思うことが、きっとみんなにも何かを与えるのかなって。それで自分で何かやろうって会社を辞めストリートに飛び出しました。
自由にやりたいことやるのも、フリーダムだけではないです。ストレスもすごくあります。だけど今後悔はしてません。
———マーシェルさんを招致したことや「スチールパンの惑星」を配給することも何かしらのメッセージだったりするのでしょうか。
HEMO: トリニダード&ドバコは、大好きな国ですが治安が年々悪くなっています。現在カリブで一番犯罪率が高いと言われています。昨年は、1年間に463人殺人事件があり私の日本の友達も殺されました。すごく悲しいし悔しい。もう二度とこういう事件は起こしてほしくない。
音楽がもっと良くなれば、政治的にも何か変わるんじゃないかなって思って。逆もちろん。今の音楽が悪いとは言いません。でも、殺しとかの凶悪犯罪が少なくない時期は音楽も良かったり。
——–直観的に音楽のパワーが社会の治安と比例すると感じているのですね。
HEMO:やはりカリブ諸国の一般家庭は、ラジオがメインで、そこで聞こえてくる音楽に触れているものだから。なんかいろんな意味で関わってくると思いませんか?
——HEMOさんのお話を聞いてると、音楽とかダンスのお話の中にソーシャルなメンタリティーをすごく感じるのですが。
HEMO: うーん。多分、初めてジャマイカに行った時に何か変わった気がします。深く。
——–どんなきっかけがあったのですか?
HEMO:ジャマイカの友達になった子の家に、遊びにおいでよと誘われて行ったら、屋根がなくてびっくりして。ありえないんだけど、そこでの家族の愛が深くて、楽しそうで心が豊かに感じました。みんなめっちゃ1日1秒を生きてる感じるというか。それだけではないですが。
帰国後、家にテレビとか電化製品などなんでもあるんだけど、家族の会話がテレビの会話が中心だったりで少し貧しく思いました。コンビニに行ったときに、こちらから挨拶したらびっくりされたり。(笑)
————心に響きます。
HEMO:その後テレビを見る生活を20年前くらいやめました。毎朝満員電車に詰め込まれて出勤してた時期は、生きてる感じが少なかった。でも、そういう価値観は、人に押し付けないように責任は取れるよう行動して行きたいと思ってます。
———このインタビューを通して、HEMOさんから私たちへの未来に向けた強いメッセージを感じます。
HEMO::今現在は、日本にトリニダード&トバゴの大使館ってないんですよ。そういう動きもあったらいいなとか。
———こんなに多くの日本の方がトリニダードが好きで行っているのに?
HEMO:だから1人の邦人が亡くなっても、そんなに深く捜査されなかったりというのはあるのでは無いでしょうか?
———(しみじみと頷く)非常に興味深いお話でした。少し話題を変えて、今後やろうと考えていることって何かあるのでしょうか。
HEMO:「JAPAN YOSAKOI REN』でも活動しているのですが、よさこいを通じた国際文化交流で、ナイジェリアやマラウィー、ジャマイカからもオファーが来てたりします。もっと外に出て行きたい気持ちはあります。日本の文化をベースにダンスや音楽で繋がりたい。もっともっと勉強していきたいです。
―――-いよいよ最後の質問です。ずばりソカミュージックの魅力を教えてください。
HEMO: 基本的にカーニバルの為の音楽で、とてもポジティブでハッピーな音楽です。個々近年では歌詞の幅も広がり、音的にもクラブミュージックとしても取り上げられています。音楽の作りが前に進むためマーチングするための音楽で面白い。カーニバル(道)で聞くと音が立体化!して、車が走ったり、物を運んだり、みんなが行き交ういつもの道でそこで踊って歌って、初めて会った人と国境を越えてワイニーしてハグして笑顔で乾杯。いつも元気をくれます。
——なるほど♡前に進む為の音楽。これは早速聞いてみたいです。大変貴重で元気が出るお話をありがとうございました。今後もHEMOさんの活動から目が離せません。まずは9/23より始まる映画『スティールパンの惑星』渋谷アップリンクに伺いたいと思います。本当にありがとうございました。
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selectorHEMO : 90年代以降、日本とカリブを繋ぎ、DJ、Selector、プロデューサーとして活動。
2000年からは世界三大カーニバルの一つ ”トリニダード・トバゴ共和国” のカーニバル音楽であるソカを中心に、最新のカリビアンミュージックを日本へ届けてきた。 トリニダード・トバゴのカーニバルとHEMOの故郷である高知のよさこいに共通点を発見し、2008年に東京と高知の融合よさこいチーム『かなばる』を結成し、 音楽やファッションを通してトリニダード・トバゴのカーニバルと高知よさこいのコラボレーションを図る取り組みを行っている。2015年には、「よさこいを通じて世界とつながろう!」という試みでアフリカガーナで2001年から続いている”ガーナよさこい祭”に”JAPAN YOSAKOI REN”をFATIMATAと結成して初参加。 これからもどんどん世界へ飛び出す予定。
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ダーリンsaeko(UWSTO代表) : 大塚生まれ。阿波踊り出身。温泉カラオケでダンスデビュー(2歳の頃)。 セカイストリートダンス&ミュージックへの探究心が止まらない永遠のノマドを約束されたダンサー。 音楽とダンスは、’思想や人種に縛られない’を信じて、キューバの深い懐にスポッとはまるように留学。興味の赴くまま、キューバ、ベトナム、台湾、コンゴ、カンボジア各地でダンス・作品制作活動を続ける。 2017年6月ラテンフリーマガジン「PACO」を創刊。 新世紀ダンスホールミュージックバンドRomantic Babaluを立ち上げ絶賛活動中。
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